薄羽カゲロウ日記(師走二日)

 私が3年前、越後湯沢の川端康成記念館を訪れた際、最も心惹かれたのは川端氏の書斎に常に掛けられていたという巫女を描いた小さな日本画である。

 

 灰色にぬりつぶされた背景に溶け込むように、黒い烏帽子をかぶり白衣に赤袴といういでたちの少女が笹を手に不安げにたたずんでいる。これから来るであろう、大きく抗いがたい神威に身を捧げざるをえない少女の諦念が、灰色の背景とあいまってその日本画をより陰鬱なものにしている。

 

 年端もゆかない巫女はかっと見開いた川端氏の眼と対峙しながら神々のご神託が川端氏の万年筆に降るように夜な夜な祈り、舞い、踊っていたのではなかろうか。

その日本画をみて、優れた作家というものは畢竟巫女のような存在ではないかと思った。

 

 彼らは筆によって時の声をつたえる。時代の精神と情操を言葉で汲み取り、未来を洞察しながら、人々の在り方に警鐘を鳴らす作家という種族は、人並みはずれて無意識と言おうか第六感が発達した動物ではなかろうか。

 

 自然の動物は地震などの天災が起こる前、本能によってその予兆を知覚することが出来るが、人間だけが発達するにしたがってこのような天変地異を予知できる動物的な本能が失われてしまった。

 

しかしながら、作家という特殊な生き物だけはその本能が失われることなく、たくさんの生命体とつながった膨大な無意識の共同体のなかから、敏感に時代の変化の予兆を感じているのではないか。そんなことを思い出しながらゾクッと背筋が寒くなった。